夜空の日記
『夜空の日記』といっても天体観測をする日記ではありません。 漫画や小説(ラノベ)やアニメについて色々書いたり書かなかったり。
我那覇響の初恋
 自分が初めて恋に落ちたのは、まだ小学校低学年の頃のことだった。
 いや、あれが本当に“恋に落ちた(Fall in love)”という表現で正しいのか、実はよく分かっていない。なぜならあの時の自分はまだずいぶんと幼く、また、あれから現在までに決して短くない時間が過ぎてしまっている。あの時自分が抱えたであろう感情を現在思い出してみても、だいぶ薄まってしまっていることだろうことを自覚している。
 それにあれ以降、自分は“恋に落ちた”と思えるような心情になることなく、現在まで年を重ねてきてしまったのだ。他にも恋をした経験があれば、「ああ、これが恋をするということか」と今ならば客観的に判断できると思うのだ。そしてその感情を参考にして、幼少期の自分の記憶から「嗚呼、やはりあれが恋に落ちるということなのか」とか「いや、あれは恋に落ちるとはまた違った感情だったのだ」と判断がつくことだろう。
 そして何よりも重要なのは、あの時の自分の恋は、結局かなうことはなかった。その胸の鼓動が本当に恋だったのかを確かめることも、その想いを言葉にすることも、伝えることもできなかったのだ。そう、だからあの時のことは、今までずっと心の中にしまっていた。今回その時のことをここに記そうと思ったのは、いつまでもあの時の感情を心の奥にしまっておいて、そのまま埃をかぶったまま忘れ去ってしまうことを恐れてのことなのかもしれない。

 自分が彼に出会ったのは、まったくの偶然だったと言っていい。
 その時、自分は日課だったペットのいぬ美の散歩に出かけていた。散歩コースは自宅の前の道からスタートして近所をぐるっと一周するだけの簡易なものだった。いぬ美は時々リードを振り切って全力で逃げることがあるけれど、基本的には歩幅の小さな幼い自分の歩くペースに合わせてくれるやつだった。よくできたやつだ。
 その日も道ばたに落ちていたラムネのビンにじゃれようとするいぬ美を無理矢理引っ張ったりしながら、ゆっくりと散歩コースを歩いていた。
 そんな時のことだった。自分が彼と出会ったのは。
 彼は道の反対側からこちらへと歩いてきていた。いぬ美は電柱にマーキングをしていた。最悪だ。リードを引っ張ると、いぬ美は「ワフッ」と抗議してきた。
 そしてこの時には既に自分は彼の魅力に取り付かれてしまっていた。つまりは一目惚れだったのである。
 凛々しい目つきに、シュッと高い鼻。スタイルもよく、身体は大きかった。男らしいワイルドなオーラが、全身から立ち上っているような感じだった。
 彼は自分とすれ違う時、チラッとこちらを見てきた。自分は幼心に胸がドキドキして仕方なく、彼の目をまっすぐ見ることができなかった。いぬ美は電柱で糞をしようとしていた。最低だ。リードを引っ張ると、いぬ美は「ボフッ」と抗議してきた。いぬ美が尻を上げた下には、引っ込みきらなかった糞が落ちていた。自分はこのとき初めて「みじめ」という言葉の意味を体感した。
 いぬ美の糞を持っていたビニール袋で処理してから振り返ると、そこにはもう既に誰の姿もなかった。自分は残念な気持ちになった。腹いせのようにいぬ美のリードを引っ張った。するとそのはずみに、いぬ美の首輪に引っかかっていたリードが外れてしまった。いぬ美は「自由だ~!」的なことを遠吠えしながら、一目散に駆け出した。自分も慌てて追いかけるが、しかしいぬ美の逃走劇はわずか数秒で終幕を迎えることとなる。
「おっと、」
 いぬ美は、駆け出した先に立っていた女の人に、簡単につかまっていたのだった。
「あら、大きな犬ねえ」
 自分は急いで追いついて、女の人が抑えてくれている間に、いぬ美の首輪にリードを取り付けた。いぬ美はもう逃げられないことを察したか、「ヴォゥフッ……」とうなだれた声を出した。
 自分は女の人にお礼を言ったが、彼女は急いでいたらしく、「もう逃がさないようにね」と言っただけで自分たちに背中を向けた。と、立ち去り際にこちらに振り返って、こう言った。
「ねえあなた。ここに来る時に光一見なかった?」
 誰? という自分の疑問が伝わったのか、女の人は光一とやらの特徴を言い直した。探しているのだ、とも。
 彼女の口にした光一とやらの特徴は、さっき自分がすれ違った彼のそれと一致していた。彼は光一という名前だったのか。そしてこの女の人が光一を探しているということは……
 つまり、そういう間柄なんだろうな、と思った。
 自分はせめてもの憂さ晴らしに、光一が去った方向とは逆の道を指差した。
「ありがとう」
 彼女は笑顔でそう言って去って行った。なぜだか自分の胸には空しさばかりが募っていた。
 その日自分はいぬ美の散歩コースに、いつもよりも遠回りになる道筋を選んだ。いぬ美は珍しい散歩コースに喜んでいたようだったが、自分はまったく喜べなかった。
 その日以来、自分は光一ともあの女の人とも会っていない。ちゃんと再会することができたのかすら、分からない。もしかしたら光一たちはたまたまこの近くまで遊びにきていただけだったのかもしれなくて、だとしたら、もう二度と会うことはないのだろう。
 そのような形で、自分の彼……光一への初恋は終わったのだった。



☆☆☆



「あれ? この雑誌、なんですか?」
 765プロの事務所内にて、雪歩が言った。彼女が指差した先には、ソファがあり、その上に一冊の月刊雑誌が伏せて置かれていた。表紙には日高舞が載っている。
 雪歩の問いに答えたのは、小鳥だった。
「ああ、それですか。この前響きちゃんが『琉球娘。』っていうタイトルで、沖縄出身の子たちの特集に呼ばれてね。その記事が載っている号なのよ」
「へえ~」
 その雑誌を手に取った雪歩は、伏せて開かれていたページを見る。そこにはよく見知った響の他、沖縄出身だという他事務所のアイドルの写真が載っていた。記事は十ページ程度で、写真ページとインタビューページに分かれている。インタビューは三人別々に扱われており、一人当たりのページの割り振りはちょっと短めではあった。
「うん、うん……うん?」
 と、そのインタビュー記事の後ろに、どうやら響の手記らしい文章が載っていた。見ると、他の子のインタビューの後にも、同様のものが載っている。共通テーマは「初恋」と書かれていた。どうやら自身の初恋についての思い出が、インタビューとしてではなく自らの文章で載っているらしい。響の欄を見ると、彼女の幼少期の思い出として、光一という男性との初恋がつづられていた。
 雪歩が響の「初恋」を読んでいると、その当人である響が事務所にやってきた。
「おはようございまーす」
「おはよう、響ちゃん。今日は午後からボイトレだからね」
「はーい」
 響は雪歩の対面のソファに腰を下ろして一息つくと、そこでやっと雪歩の読んでいる雑誌に気づいた。
「おっ。その雑誌、もう出てたのかぁ」
「う、うん。……ねえ、響ちゃん。この『初恋』のことなんだけど……」
「ああ、それなぁー」
 響は腕を組んで、胸を反らした。
「『初恋』って言われても、正直自分にはよくわからないんだよなー」
「う、うん」
 それは「初恋」の本文にも書かれていた。この時の気持ちが本当に恋なのかどうか、分からないと。
 でも。
「ねえ、響ちゃん」
「ん?」
「この光一さんのことを見たとき、響ちゃんは、ドキドキ……した?」
 雪歩は自分のことでもないのになんだか恥ずかしくなって、顔を赤らめた。一方の響は、
「うん。したぞ」
 なんてことないように言うのだった。
 雪歩は胸の前で両手をぎゅっと合わせて言った。
「だったら……それはちゃんと“恋した”んだと、思うな。だって、ドキドキしたんでしょ? だとしたら、それは恋なんだよ。深く考えなくても、ドキドキしたら恋なんだよ。簡単、だよ?」
 雪歩は自分の思うことを精一杯伝えようとする。多少たどたどしくても、彼女の言いたいことは、ちゃんと伝わる。響はニカッと笑った。
「ああ、ありがとう。雪歩」
「うん……」
「そっかー。あれは恋だったんだなー」
「うん、そうなんだよ」
「そっかー。人間って、犬に対しても恋できるんだなー」
「うんうん。犬に対してもできるよ。……犬?」
「え? うん。犬。ゴールデンレトリバー」
「……え?」
「え?」
 雪歩は慌てて雑誌に目を落とし、彼女の手記「初恋」を読む。そこには彼女の幼少期の思い出として、光一という男性との初恋がつづられていた。そしてそこには、「光一は人間である」とは一言も書かれていなかった。
 わけがわからない、という感じで目をグルグルにしている雪歩にはまったく気づかず、響は笑って言う。
「いやー、最初はカッコいいゴールデンレトリバーだったからドキドキしだけかと思ったんだけど、あれって恋だったんだなー。どうしても『初恋』ってテーマで書けなかったから無理矢理それっぽくしたんだけど、あながち間違ってなかったんだなー」
 間違ってる! ごめん、間違っているよ響ちゃん!
 雪歩はそう言いたかったが、ふと気づいてその言葉を喉の奥に押し込んだ。
 彼女が口にしている初恋の思い出こそ犬に対するものだったけれど、それでも今の彼女の表情は、ちゃんと恋するオンナノコの表情をしていたから。
 だから……もしかしたら、本当に間違っていなかったのかもしれないね、なんて。雪歩はそう思うことにしたのだった。
 願わくは、響が次にまた恋をするようなことがあったとき。その時はちゃんと人間が相手で、ちゃんとその想いの正体に気づけて、……そしてその恋がかないますように。
 そんなことを思いつつ、雪歩は事務所のみんなにお茶を淹れようと席を立った。



(おしまい)
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